菊屋番頭のひとり言

「伊豆・修善寺温泉 老舗旅館 菊屋」宿屋での四苦八苦や七転八倒、喜怒哀楽・・・。            前大番頭から引継いだ文才の無い小番頭。季節の写真をまじえた迷・大奮闘紀。

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漱石と菊屋(弐)

漱石夏目金之助は、明治四十三年八月六日から十月十一日まで修善寺 
菊屋本店に
滞在し病身を養った。


当時伊豆におもむくのはかなりの大旅行だった。東海道線は箱根の山塊を
北へ迂回して避け、御殿場から三島へと至った。三島から伊豆箱根鉄道が
出ている。
それは大仁が終点となっていて、大仁から修善寺までは人力車を使った。
漱石は雨中ひた走った。
明治四十三年の夏は異常な多雨で、東日本を中心に土砂崩れや洪水に
見舞われたがこの日の雨はその序曲だった。 到着の翌朝、漱石は生卵二つと
ご飯三膳を食べた。



青年期より神経症の胃病に悩まされていたと言う。漱石は食いしん坊だった。
酒はまるで飲めず、甘いものが好きだった。


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長く胃弱に苦しんでいた彼は、明治四十二年秋満州朝鮮旅行で胃病をさらに
悪化させ、四十三年の六月、内幸町の長与胃腸科医院で胃潰瘍と診断されて
入院した。
七月三十一日には退院したが、医者にも勧められた転地療養の為、修善寺に
おもむいたのだった。 彼はその二週間ほど後、急激に症状を悪化させ
菊屋にて八月二十四日に大吐血をし、危篤に陥った。


正確にはこの時三十分漱石は死んだのである。


「強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めて余とは
一分の隙も無く連続しているとのみ信じていた。その間には髪毛一本の
挟む余地のないまでに自覚が働いて来たとのみ心得ていた」


「妻の説明を聞いたとき余は、死とはそれほど果敢ないものかと思った。
そして余の頭の上にしかく卒然と閃いた生死二面の対照の、如何に急激で
かつ没交渉なのに深く感じた」


 修善寺の大患と漱石の生死観  関川 夏央 より

つれづれに

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2006/05/24(Wed) 15:48:13 | | [ Edit]
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